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東京地方裁判所 平成6年(行ウ)79号 判決

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

池田達郎

白河浩

武井洋一

被告

東京都目黒区長

河原勇

右指定代理人

内山忠明

外三名

主文

一  別紙物件目録二記載の土地について建築基準法四二条二項の規定に基づく被告の指定処分が存在しないことを確認する。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求の趣旨

主文と同旨

第二  事案の概要

一  本件は、別紙物件目録一記載の土地(以下「本件土地」という。)の共有持分を有する原告が、右土地の一部である同目録二記載の土地(以下「本件通路」という。)は、被告が建築基準法(以下「法」という。)四二条二項の規定に基づく道路として一般的に指定することを定めた告示所定の要件に該当しないとして、本件通路につき、右指定処分が存在しないことの確認を求めた事案である。

二  以下の事実は当事者間に争いがない。

1  本件土地は、原告と訴外乙川雪江で共有する土地であり(原告の持分は三分の二)、本件土地及びその周辺土地の現在の位置・形状・地番は別紙図面1のとおりである(以下、別紙の各図面を単に「図面1」などという。また、本件土地を除く図面1記載の土地を地番のみにより「五一二番三土地」などという。)。

現況によれば、本件土地の一部である図面1の斜線表示部分(以下「係争土地部分」という。)の東端は「山手通り」と呼ばれる幅員の広い公道に接しているが、その接する部分付近には二本の門柱(以下「東側門柱」という。)があり、その間口(門柱と門柱の内側の間隔をいう。以下も同じ。)の幅は3.25メートル、門柱の幅は各0.25メートルである。また、係争土地部分の西側の五一四番六土地の南東角部分にも二本の門柱(以下「西側門柱」という。)があり、その間口の幅は2.75メートルである。

2  法四二条二項によれば、同条一項各号所定の「道路」に該当しない道であっても、法第三章の規定が適用されるに至った昭和二五年一一月二三日(以下「基準時」という。)において、現に建築物が建ち並んでいる幅員四メートル未満の道で、特定行政庁の指定したもの(以下「二項道路」という。)は同条一項の「道路」とみなされ、その中心線から水平距離二メートルの線が道路の境界線とみなされるとされている。

3  東京都知事は、昭和三〇年七月三〇日東京都告示第六九九号により、基準時において東京都内に現存する幅員四メートル未満1.8メートル以上の道で一定の要件に該当するものなどを包括的に二項道路に指定したが、その後、法施行令一四九条二項二号の改正(昭和四九年六月政令第二〇三号)によって、昭和五〇年四月一日以降は、被告が、目黒区の区域内において法四二条二項所定の特定行政庁としての権限を有することになった。

そこで、被告は、昭和五〇年三月三一日東京都目黒区告示第一六号(同年四月一日から施行)をもって、目黒区の区域内で一定の条件を充たす道の全部を一括して二項道路とする旨の指定(以下「本件指定」という。)をしたが、その告示第三号本文によれば、「基準時において、現に存在する幅員四メートル未満1.8メートル以上の道で、一般の交通に使用されており、その中心線が明確であり、基準時にその道のみに接する建築敷地があるもの」との条件(以下「指定条件」という。)を充たす道は、本件指定により二項道路とする旨の指定がされたことになる。

4  東京都目黒区建築主事は、係争土地部分のうち本件通路(図面2の一点破線を中心線とする幅員3.75メートルの範囲の土地)が指定条件を充たす道として本件指定により二項道路とされ、その中心線から水平距離二メートルの線(図面2の二点破線)が道路境界線とみなされることを前提として、平成四年二月二日付けで、訴外有限会社浩に対し、五一二番三土地、同番五ないし同番七土地、同番一一土地及び同番一四土地の六筆を敷地とする建物について建築確認をした。

5  ところで、基準時において、本件土地及びその周辺土地には、図面3のとおりの位置に建物(以下、図面3記載の建物を「建物A」などという。)が存在しており、その当時、丙山一郎(以下「丙山」という。)が建物A及び建物Bを、丁海三郎(以下「三郎」という。)が建物C及び建物Eを、茂井春子(以下「茂井」という。)が建物Dをそれぞれ所有し、建物Eには沢某(以下「沢」という)が居住していた。なお、基準時においては、五四九番一土地(図面3の「畑」と表示の土地)に建物はなかった。

三  争点及びこれに関する当事者の主張

1  争点

本件道路は、基準時において、指定条件を充たしていたかどうか。

2  被告の主張

(一) 一般交通に使用される道の存在

基準時に東側門柱が存在したかどうかは不明だが、基準時において、係争土地部分には、本件通路が公道から建物C、建物D及び建物Eに至る道として存在し、右各建物の居住者その他の者が自由に通行できるものとして、一般の交通に使用されていた。

(二) 本件通路の中心線及び幅員

本件通路の中心線は、現在の東側門柱の間口の中心点から係争土地部分の北側に存在した塀に平行して西に27.5メートルの点を結ぶ線及びその点から西側門柱の間口の中心点を結ぶ線であり(図面2の一点破線)、その幅員は、3.75メートル(現在の東側門柱の幅と間口の幅を加えたもの)であって、東側門柱から西側門柱までほぼ均一であり、右の状況は基準時から現在に至るまでほぼ変ることがなかった。

(三) 本件通路に接する建築敷地

建物C及び建物Dの各建築敷地は、基準時において、本件通路のみに接していた。二項道路の指定は、ある道を「道路」とみなすことによってのみ法四三条一項の接道要件を充たす建築敷地が複数存在する場合に、そのような敷地の接道要件適合性を充足させ関係権利者を救済することに意義がある制度であるから、基準時において現に建物が建てられていた建築敷地で本件通路のみに接するものが右のように二個ある場合には、法四二条二項に規定する「現に建築物が建ち並んでいる」との要件があるというべきであり、指定条件中の「基準時にその道のみに接する建築敷地があるもの」に該当する。

(四) 右のとおりであるから、本件通路は、基準時において、幅員が四メートル未満1.8メートル以上の道で、一般の交通に使用されており、その中心線が明確で、基準時に本件通路のみに接する建築敷地が存在するから、本件通路は、指定条件を充たす道として、本件指定により二項道路とされたものである。

3  原告の主張

(一) 一般交通に使用される道の不存在

建物Eの敷地は、東側において山手通りとは別の公道に接し、北側には塀が接置されており、建物Eに至る道として本件通路が使用されていたことはない。三郎は、基準時において、係争土地部分を含む建物Cの敷地を所有していたところ、その当時、係争土地部分と建物A及び建物Bの敷地との間にはコンクリートのブロック塀が設置され、東側門柱が設置されていたことから明らかなように、係争土地部分は、公道や隣接地と区分された自宅敷地内の通路等に過ぎず、三郎の家族が通行するほかには、建物Dの茂井夫婦が通行するだけで、一般の交通に使用されてはいなかった。

(二) 中心線及び幅員の不明確

基準時当時、三郎は、戦後の食糧難に対処するため、被告が主張する本件通路の左右の空地を畑として耕作しており、係争土地部分のうち三郎や茂井が自宅に出入りする通路として使用していた部分は、人が二人並んで歩ける程度の砂利道であって、畑部分と明確に区分されていたわけでもなく、中心線や幅員が判然とするものではなかった。

また、係争土地部分は、東側門柱の間口幅こそ3.25メートル未満であるが、その門の内側(西側)は大きな広がりを持ち、優に四メートル以上の幅を有する土地であった。係争土地部分に幅員3.75メートルの本件通路があったとする被告の主張は、東側の門の幅(門柱の間口と各門柱の幅の合計)が3.75メートルである事実を唯一の根拠とするものであるが、門は建物敷地への出入口に過ぎず、門の幅もこれを設置する者が自由に決定できるのであるから、門の幅をもって道の幅員を決定することは極めて不合理である。

右のとおり、係争土地部分には、「中心線が明確」で「幅員四メートル未満1.8メートル以上」という指定条件を充たす道は存在しなかった。

(三) 本件通路に接する建築敷地

指定条件のうち「基準時にその道のみに接する建築敷地があるもの」とは、当該道が二項道路に指定されることによってのみ法四三条一項の接道要件を充たすことになる敷地が「複数」存在するという意味に解すべきであるところ、基準時において、係争土地部分に二項道路が存在することによってのみ接道要件を充たす敷地は、建物Cの敷地又は建物Dの敷地のどちらか一方であるから、本件通路は、右の指定条件に該当しない。

そもそも、二項道路の指定は、基準時において建物敷地が接する幅員四メートル未満の道の中心線から二メートル以内の部分(当然に従前の建築敷地の一部を含むのである。)での建築を制限し、従前の建築敷地に新規に建物が建築される際に建物を後退させ、これにより将来的に四メートル幅の道を確保しようとする趣旨で行われることが予定されているが、係争土地部分は基準時において四メートル以上の幅で建物敷地が存在しない土地であったから、その中に、建築制限を強制する趣旨で二項道路を指定することが必要となる部分はありえない。

(四) 係争土地部分については、今日まで、地方税法三四八条二項五号所定の「公共の用に供する道路」として非課税とされたことがないことからみても、その中に本件指定により二項道路とされた部分があるとはいえない。

第三  争点に対する判断

一  前記争いのない事実(事案の概要二の事実)に、いずれも成立に争いがない甲第一ないし第三号証、第八及び第九号証、第一三ないし第一六号証、第一八号証、乙第一一ないし第一三号証、第一六ないし第一九号証、原告訴訟代理人撮影の係争土地部分の写真であることに争いがなく、弁論の全趣旨により平成六年一一月一七日に撮影されたものと認められる甲第一七号証、証人峯島英造の証言により原本の存在及び成立の真正を認める乙第四号証、証人星野晴の証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  基準時における建物A、建物B、建物C、建物D及び建物Eの敷地の状況は図面4のとおりである(以下、図面4の四つの敷地を建物の符号に準じて「A・B敷地」、「C敷地」などという。)。

三郎は、大正六年中にC敷地及びD敷地の所有権を取得し、昭和七年に建物Cを新築して、基準時当時は、家族とともに同建物に居住していたものであり、また、建物Eは昭和一六年三郎によって新築され、基準時当時、沢の家族の居住の用に供されていた。

建物Aは大正一五年に、建物Bは昭和一五年にそれぞれ表示登記及び保存登記がされた建物であり、基準時当時、いずれも丙山が所有していた。

建物Dは、遅くとも昭和五年一月までに、三郎所有のD敷地の上に建築されたものであり、茂井は、昭和一六年六月、建物Dを買い受け、三郎からD敷地を賃借するようになり、基準時当時、高齢の夫と同建物に居住していた。

なお、建物C及び建物Eは現存しているが、建物A、建物B及び建物Dは既に取り壊されて現存していない。

2  C敷地の範囲は図面5のとおりであって、係争土地部分は約六メートルの幅で公道に接しており、南側のE敷地と北側のA・B敷地に挟まれた部分は既ね六メートルの幅があるが、現在、建物Eの北側にトタン塀がE敷地の境界線(図面5のエ・オ点を結ぶ線)よりもかなり後退して設置されているため、係争土地部分がE敷地と接する部分では、八メートル程度の幅の空地となっている。また、現在、図面5のア・イ・ウ点を結ぶ線に沿ってC敷地の側にコンクリート製の万年塀(以下「本件万年塀」という。)が存在している。

3  三郎は、戦前、係争土地部分が山手通りに接する部分に木製の門柱及び門扉を設置し、また、A・B敷地との境界に沿って係争土地部分の側にフェンスを設置していたが、昭和二五年ころ(それが基準時の前であるか後であるかは明らかでない。)、それらの門柱等及びフェンスを取り壊して、その跡にコンクリート製の門柱(現在の東側門柱)と鉄製の門扉及び本件万年塀を設置した。右鉄製の門扉は、その後、何らかの理由で外され、東側門柱の近くに立て掛けられたまま放置されていたが、いつの間にかそれもかたづけられた。なお、東側門柱には、左右の各門柱にそれぞれ表札が付けられていたが、現在はその跡が見られるだけで、表札は掲げられていない。

4  基準時当時、係争土地部分のうちA・B敷地寄りの部分は、三郎の家族及び高齢の茂井夫婦が公道(山手通り)から自宅に出入りする通路として使用していたが、右通路は舗装されておらず、ただ砂利などが敷かれた状態で、その幅員(基準時当時の具体的な幅員は定かでない。)も雑草などのため所々広狭があり必ずしも一定したものではなかった。また、三郎は、基準時当時、右通路部分とE敷地の間の辺り一帯(E敷地の一部を含む。)を畑にして耕作していたが、その畑部分と通路部分との間は必ずしも明確な区分がされているわけではなかった。

なお、現在、本件通路は舗装がされているが、これは、十条製紙株式会社が昭和二五年一一月三〇日に茂井から建物Dを買い受けた後(その後、同建物は、昭和二八年四月一三日、同社から金子佐一郎に譲渡されている。)、同社の役員であった金子佐一郎が建物Dに居住するようになってから、役員送迎用の自動車を建物Dまで出入りさせるために、十条製紙株式会社あるいは金子佐一郎によって舗装されたものであって、その舗装の時期は定かでないが、いずれにせよ基準時の後であることはいうまでもなく、基準時において本件通路が舗装されていなかったことは明らかである。

5  A・B敷地は広い範囲で公道に面し、係争土地部分とは基準時の前後を通じて終始コンクリート塀ないしフェンスで仕切られていたものであり、基準時当時、公道から建物A及び建物Bに出入りするために係争土地部分を自由に通行することはできなかったし、建物Bの利用者は、建物Aの南側を公道へ通じる通路として利用することが可能であって、係争土地部分を通行する必要もなかった。また、E敷地もその東側で公道に接しており、基準時当時、現在あるトタン塀と同じ位置に塀が設置され、係争土地部分との間は畑として利用されていたものであるから、公道から建物Eに至る通路として係争土地部分が使用されていたとは考えられないし、公道への通路としてわざわざこれを使用する必要もなかった。

したがって、基準時において係争土地部分を使用して公道(山手通り)に出る必要があったのは、建物C及び建物Dに居住する者だけであった。

6  なお、D敷地は、昭和四三年、三郎から金子佐一郎に売却され、D敷地とC敷地の所有者が異なることになったことから、三郎と右金子との間で、係争土地部分及び五一四番七土地を承役地とし、五一四番六土地を要役地とする通行地役権が設定されている。

右のとおり認められるところ、証人峯島英造の証言中には、横須賀明子からの事情聴取によれば、建物Aの居住者は本件万年塀の位置にあった塀の開き戸から係争土地部分に出入りしていたとする部分、沢總子からの事情聴取によれば、建物Eの居住者はその北側の塀の勝手口から係争土地部分に出入りしていたとする部分があるが、右関係者の説明は、いつの時点についての話であるのか明確でないし、A・B敷地及びE敷地と公道との位置関係、現在の塀の状態などに照らしても不自然であって、右認定を左右するものではなく、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

二 右認定した事実によれば、源吉は、基準時の前後を通じ、公道に面して門柱及び門扉を設け、係争土地部分を含むそれら門の内側(西側)の土地が、私人の建物の敷地であることを外部に明らかにしていたものであり、基準時当時、係争土地部分の一部を公道に至る通路として使用していたのも、C敷地及びD敷地を所有し建物Cに居住していた三郎及びその家族と、三郎からD敷地を賃借し建物Dに居住していた茂井及びその夫という特定の関係者に限定されていたものであって、基準時当時において、本件通路が右特定の関係者以外の者の自由に通行できる道として一般に開放されていたとはいい難いし、また、茂井夫婦による右使用も、茂井が三郎からD敷地を賃借したことに伴い、その通行の許諾を得て行っていたものと窮われる。

このように、基準時当時において、係争土地部分の一部が、建物C及び建物Dの居住者のための通路として使用されてはいたが、それは、C敷地及びD敷地を所有していた三郎のいわば自宅敷地内の通路としての性格を有するものに過ぎず(前記認定のように、その幅員も一定していない。)、基準時において、本件通路が一般の交通に使用されていたものということはできないといわざるをえない。

三 そうすると、本件通路は、指定条件にいう「一般の交通に使用されて」いるとの条件に該当しないことが明らかであるから、その余の点について検討するまでもなく、本件通路については、被告の法四二条二項に基づく本件指定が存在していないというべきである。

よって、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤久夫 裁判官橋詰均 裁判官德岡治)

(別紙)

(別紙)

(別紙)

別紙物件目録〈省略〉

別紙図面4、5〈省略〉

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